前回の記事で私は、「言われたことを一瞬でイラストに変えてくれるアプリが、私たちのコミュニケーションにどのような価値をもたらすか」について語りました。今回の記事では「このアプリを入り口として私たちが目指す社会」について、もう少し詳しく書かせていただこうと思います。


小児科医の私が、起業してアプリを作っているわけ(その3)



階段を、上がるよ……

お母さまが息子さんに促すと、廊下で戸惑っていたご様子の息子さんが、階段をトコトコと上り始めました。私が

3階に、行こう

と、検査のご案内をした直後の出来事でした。

うちの子、この歳ですけど……まだ数の大小とか、階の概念とか、ちょっと難しいみたいなんです……でも、階段を上がるとか降りるとか言えば、通じるので……

と、お母さまが少し恥ずかしそうに仰いました。

私は、強い衝撃を受けました。少し屈んで、目の高さを合わせ、「やさしい」表現で男の子に話しかけた「つもり」になっていた私の言葉は、彼にとっては決して「やさしい」ものではなかったということに、私はその瞬間まで、全く気づけていなかったのです。

「3階に行く」ことと、「階段を上がる」ことの違いを表すイラスト

たしかに、あらためて考えてみれば「3階に行く」と「階段を上がる」の間には、無数の分岐があります。

東大の小児科外来(2階)から向かうなら、3階は「上がる」べき場所ですが、精神科外来(4階)から向かうなら、3階は「下がる」べき場所になります。更に離れた階からなら、階段よりエレベーターを使う方が適切でしょう。

つまり「3階に行こう」と言われて「階段を上がる」ためには、少なくとも、極めて抽象的な「階」という概念が分かり、いま自分が居るのが「2階」であると分かり、目的地の「3階」は「2階」より「上」であることが分かり、「3階」と「2階」は「1階分しか離れていない」から「エレベーターより階段がいい」と分からなければならなかったわけです。

ところが、30年以上も生きてきた小児科専門医の私は、その瞬間まで「3階に行く」という表現の持つ難しさに、(恥ずかしながら)全く無頓着だったのでした。


小児科の診察室では、こんなことが日常的に起こります。

当たり前に「階」の概念を獲得し、当たり前に「数の大小」を理解し、当たり前に「移動手段」の状況判断ができる私たちにとって、「3階に行く」という言葉がけの難易度を想像しようと試みることは、とても難しいと、私は(自分自身への反省も込めて)思うのです。


叡智は、現場にある

どのような声掛けが通じるか、どのようなイラストがお子さんに好まれるか、どのような態度がお子さんの将来にとって望ましいか……試行錯誤の結果として蓄積される生活のノウハウは、病院の中ではなく、問題と対峙している子育て現場にあります。

「3階に行こう」がお子さんにとって難しいと気づき、「階段を上がる」に言い換えて問題を解決する、あのお母様のような「大発見」に、私はこれまで数々の衝撃を受けてきましたし、おそらく私がまだ接することができていない「大発見」も、世の中には無数に埋もれているのでしょう。


医学や医療は、私たち人類が過去に行った無数の試行錯誤と、その結果として発見された「効果的な介入」の寄せ集めです。

江戸と昭和と令和の医学研究を並べたイラスト

江戸時代、葛の根っこが風邪に役立つから、医療者は薬草園にたくさんの植物を集め、埋もれていた植物から数々の漢方薬を調合し、多くの方々に役立てました。

昭和の時代、アオカビが細菌感染症に役立つから、医療者は実験室にたくさんの微生物を集め、埋もれていた微生物から数々の抗生物質を発見し、多くの方々に役立てました。

令和の時代、発達障害の方々に役立つのは、子育て現場で日々実践されるノウハウです。治療ガイドライン(医療者向けに、望ましい治療のあり方を示した指針)にも、発達障害の方々に対しては、環境調整が極めて重要だと書かれています。つまり、子育て現場に埋もれている数々のノウハウを集め、たくさんの患者さんたちに役立てるシステムを、私たちは必要としているのです。

ほんの少し前まで、そのようなシステムを構築することは、夢物語でした。しかし、人工知能(AI)が発達した今ならば、それは夢物語ではありません


「こどもめせん」の開発サイクル

こどもめせんのアプリでは、そのようなシステムの第一歩として、利用者の方々からメールでフィードバックをいただいています。どのようなイラストが必要か、どのような声掛けが通じたか……といったノウハウが、日々現場から大量に寄せられ、それをもとに1-2週間に1回ずつ、AIはアップデートを重ねているのです。

2025年 7月 14日に、783 枚のイラストを搭載して公開した、こどもめせんのAIは、この原稿を書いている今 (2025年9月14日) 現在、1,565 枚のイラストを搭載しています (Cf. 更新履歴)。AIを試し、フィードバックをくださる78名の方々のおかげで、わずか2か月の間にイラストが2倍になりました。


例1: 紐通し

例えば、お子さんの手指巧緻性向上訓練(指先を器用に動かす練習)に取り組んでおられる作業療法士さんから、「紐通し」のイラストが欲しいとリクエストをいただいたことがあります。

「紐通し」という語は、決して一般的な子供向け辞書に載っているものではありません。私が一人で開発をしている限り、AIへ教えられることなど望むべくもない語彙だったでしょう。私はリクエストに感謝しつつ、次のようなイラストをアプリに搭載しました。

紐通しをしている男の子のイラスト

必要十分なシンプルさで、穴の開いたビーズを紐に通している男の子のイラスト――それなりによい出来と自負していたつもりですが、反響は

うまく通じませんでした。指先を拡大したイラストはありませんか?

というものでした。

言われてみれば、なるほど。先ほどのイラストは、お子さんが「紐通し」のときに見ている景色とは違うわけです。(これも全然、当初の私が想像もしていなかったことでした!)

そこで私は、以下のイラストを、追加でアプリに搭載しました。

紐通しをしている手元のイラスト

今度はお子さんの見た通り、ビーズを穴に通す様子が分かりやすいはず……そう思って反響を待つと

うまく真似してもらうことが、できませんでした。左右、逆になりませんか? 彼は左利きです

というお返事! ここでも、右利きとして生きてきた私が、左利きの方々に対して想像不十分であったことを、思い知らされる結果となりました。

三度目の正直とばかりに、反転したイラストを追加して、

左手で紐通しをしている、手元のイラスト

ようやく

通じました

というお返事があり……結果として、いまのアプリに「紐通しをするよ」と話しかけると、以下4種類のイラストが表示されるようになっています。

「紐通し」という語に関連づいた4種類の表示

このようなやりとりを繰り返しながらアプリを推敲していくことは大変なプロセスですが、リクエストをいただくたびに利用者の方々の目線に近づける感覚があり、とてもやりがいのある作業です。

つい先日も、別の施設に勤務されている作業療法士さんから「ひも通しのイラスト……しかも左利きの子の手元のイラストがあるんですね。まさに、こういうイラストがほしかったんです。すごく役立ちます」と、感動のコメントを頂戴しました。

これは間違いなく、最初にリクエストをくださった作業療法士さんと、最初のイラストでは分かりにくいと教えてくれた彼の、おかげです。


例2: 2階へ上がろう

もう一つだけ、具体例を挙げましょう。

数週間前、とある親御さんから「2階へ上がろう」というイラストのリクエストが届きました。

私はあの日、東大病院の2階で、あのお母様に気づかせていただいたことを思い出しながら、「『~階』という表現に対して、移動手段で言い直すよう促すコメント」と、「階段を上る男の子のイラスト」を準備しました。

『~階』という表現を用いた場合のヒント画面と、階段を上る男の子のイラスト

結果は、劇的だったようです。

昨夜息子に見せましたら、スムーズに2階へ上がることができました!

と、お母さまから「!」付きで喜びのメールが届いたとき、私はこの共創システムが、機能し始めていることを実感しました。

あの日、東大病院の2階でシェアしていただいたお母さまの叡智が、時間と空間を越えて、別のご家族を助けたわけです。


求めることは、与えること

これまでAIを研究してきた私には、分かります。今は私が行っている、リクエストメールの仕分けや、プログラムのアップデートも、近い将来AIが行い、数百万・数千万件のリクエストを基に、不断なく叡智をアップデートしていけるようになります。

どんなイラストが必要か、どんな声掛けが望ましいか……現場で何が問題になり、それをどう解決していくことができるのか……一つ一つのノウハウを、集め、共有し、ともに育つ未来を、私たちは創ることができるのです。

そのような世の中においては「助けを求める人」と「助けを与える人」という区別が、消失します。数週間前、2階に上がれなかった男の子を助けたのは、数年前「3階に行くよ」という指示では動けなかったお子さんです。数日前、紐通しできなかった女の子を助けたのは、数週間前「右利きの子のイラスト」では紐通しができなかったお子さんなのです。

困りごとを伝えること、イラストをリクエストすること、アドバイスを請うこと……このような、今まで「求める」行為とされてきたものが、時間や空間を超越するAIと結びつくことで、誰かに「与える」行為となります。求めよ、さらば(他者にも)与えられん……という世の中の、入り口に私たちは生きているのです。


振り返れば、「ワタシの一人」である私には、瀬戸内海のあをさをイメージすることも、3階に行くことの難しさを予想することも、右利きのイラストを見ながら左手で紐通しする困難さを想像することも、できませんでした。

でも、アナタに問いかけ、アナタに教わり、アナタからのリクエストに応えることを通じて、アナタの目線に少しずつ近づくことなら、できているような気がします。

私はこの取り組みを、持続可能な形で皆様と拡げていくために、株式会社こどもめせんを創業しました。


「こどもめせん」は、言葉を一瞬でイラストに変換してくれるAIアプリです。

しかし、それだけではなく、ワタシがアナタの目線を想像しようとする試みであり、ワタシタチをアナタタチと共に創っていこうとする試みなのです。


だから私は、募集します。そのようなシステムのコードを書き、実装のサイクルを加速してくださる、プログラマの方々を募集します。

だから私は、募集します。そのようなシステムの入り口となるアプリを紹介し、共創の輪を広げてくださる、応援者の方々を募集します。

そして私は、募集します。そのようなシステムを活用しながら、育つ方々/育てる方々を募集します。いつかどこかで、ダレカのことをそっとサポートできるのは、アナタの目線――いまお困りの、アナタの目線に他ならないと、私は信じているからです。


ここまで長文をお読みいただき、本当にありがとうございました。メールアドレスは info@children.co.jp です。これから(も)どうぞ、よろしくお願い申し上げます。


塙孝哉(はなわたかや)
新潟県立新潟高等学校出身。東京大学医学部医学科卒。小児科専門医。昼夜逆転・不登校だった弟の一助になればと学部時代に所属した睡眠の研究室で、プログラミングに出会う。以降、東京大学医学部附属病院小児科助教等、小児科医としての臨床業務と、プログラマ・AI研究者としての社会実装活動(IT/AIの強みをいかして医療現場をよりよくする活動)を続け、子どもたちの役に立つ取り組みを加速させるべく、2025年5月に株式会社こどもめせんを創業。本アプリケーションのプログラミングは、今のところ全て自身で行っている。生まれた場所や生まれもった発達特性に関わらず、全ての子どもたちが幸せに生きていける社会の実現が夢。本アプリケーションをその端緒として、応援いただける方々と共に育てていきたいと願っている。