※ このページは、保護者ほごしゃ方々かたがた けです。


小児科医の私が、起業してアプリを作っているわけ(その1)



こらっ! 外来の診察室で立ち歩くなって言ったでしょ!

診察室に、鋭い声が響きました。両耳をおさえ、ブツブツと独り言を呟きながら歩き回っている男の子を、お母さまが注意されたのです。

男の子は一瞬、顔をしかめて、さっきより強く両耳をおさえながら、いっそう速足で、狭い診察室の中をグルグルと歩き回ります。

……すみませんねぇ……いつもこうなんです……

そう気まずそうに苦笑いしながら、こちらに頭を下げるお母さまの表情には、数年来のお疲れと諦めとが、降り積もっていました。

私は『椅子に座っている子のイラスト』を取り出して、

椅子に座っている子のイラスト 椅子に座るよ

と穏やかに言いました。


男の子は私の声を聞き、イラストを見て「分かった!」という表情になり、パッと椅子に座ると、イラストの通りに両膝をそろえ、背筋をピンと伸ばします。

……えっ!? ……ぇえっ!?!?

お母さまが驚いて息をのんだ音が、私の耳にも、はっきり届きました。

椅子に座れて、偉いね!!

私は拍手しながら、男の子を褒めます。

すごい……ね……

お母さまもつられて、拍手しました。

男の子は、お母さまが自分に拍手してくれるのを見て、得意気に笑い、自分で自分に拍手をすると、そのまま嬉しそうな表情で、きちんと椅子に座っていました……。


小児科の診察室では、こんなことが日常的に起こります。

これは、魔法でしょうか? それとも、発達障害の診断と治療ができる、児童精神科のエキスパートにしか実践不能な、超絶技巧の秘伝でしょうか?

いえいえ、決して、そんなことなど、ありません。

たしかに、読者の皆様がお察しの通り、彼は 発達障害 です。

医療者の言葉で描写するなら「自閉スペクトラム症・知的障害で、ワーキングメモリが低く、視覚優位」ということになるでしょう。

しかし、もっと簡単に言うなら、彼は

  1. 一度に たくさんのことを言われても困ってしまう
  2. 耳で聞いた情報より 目で見た情報を処理する方が得意
  3. お母さんに 褒められたい 男の子

だったわけで、私が行ったのも単に

  1. シンプル肯定文
  2. イラストを 見せながら 指示し
  3. できたら 褒める

という、基本原則通りの対応にすぎません。

魔法でも秘伝でもなければ、彼が「反抗していた」訳でも、私との「相性が良かった」訳でもなく、単に コミュニケーション方法 の問題なのです。


コミュニケーション方法の問題ですから、練習すれば誰でも習得できるはずです。

シンプルな肯定文で、イラストを見せながら指示し、できたら褒める というサイクルを繰り返すと、次第にお子さんにも自信がつき、できることが増え、 子育てが好循環に 入りますよ……そんな説明を繰り返しながら、それを実際に行うことの難しさに、頭を抱える日々が続きました。

適切な方法を 知っている ことと、それを毎日の生活の中で 実践できる ことの間には、 大きな3つの壁 があったからです。


絵カードを一瞬で選ぶ

第一に カードを一瞬で選ぶ ことが、とても大きな壁でした。

診察室で使うカードはせいぜい十数種類ですが、彼の一週間を想像するだけでも、あってほしいカードの数は数百枚をゆうに超えます。PECSやコバリテ、えこみゅなど、偉大な先輩方の整備してこられた視覚支援グッズは世の中にたくさんあり、コミュニケーションの困難な多くの子どもたちにとって、大きな助けとなっていますが、使いたい絵カードの枚数を増やすと、それを管理して選ぶ側の難易度が、どんどん上がってしまうのです。

チョロチョロと動き回るお子さんから目を離さないよう見守りながら、その子に指示が入る 一瞬 を逃さず、最適な絵カードを選んで提示する難易度は極めて高く、神業的な記憶力とタスク処理能力、瞬発力と熱意が要求されるため、使える人を選んでしまいます。

特に「音声言語が全く使えない訳じゃないけれど、音にイメージを結びつけるのが他のお子さんより不得手で、周りの様子を伺いながら、おそるおそる行動している 境界域 のお子さん」は、言葉を全く話されない重症のお子さんに比べて必要な絵カードの量が多いので、親御さんが絵カードを使おうとした場合の難易度がむしろ高くなり、従来の視覚支援グッズでは対応できずに取り残されてしまいがちでした。

重症度と必要な絵カードの枚数の関係

シンプルに話す

第二に シンプルに話す ことが、さらに大きな壁でした。

こどもたちに理解可能な、必要最低限の単語 を選び、複文を避け、目的語と述語を近づけて、余計な修飾語を省きながら話すことは、簡単そうに見えて、かなり高度な作業です。

音声言語を何不自由なく、自然に習得された親御さんは「小児科の診察室に入ったら椅子にきちんと座って診察を受けるのが当たり前でしょ」と言われながら育っておられます。だから自分の子どもにも、同じように言おうとするのは当然です。

そこをグッとこらえて、脳内で「何が一番重要な情報だろう?」と思考を整理し、「椅子に座るよ」という二語文にする……(実は、この整理ができるようになるだけで、絵カードがなくとも、子どもたちとコミュニケーションを劇的にとりやすくなるのですが)これは、よほど言語能力が高く、ご自身の 声掛けを客観視 できる方でなければ実践できません。

診察室で見かけたときには、言い換えをアドバイスしたりもするのですが、残念ながら 医療者の時間は限られ ており、24時間365日、つきっきりでアドバイスできるわけではありません。親御さんが気づき、理解し、実践できるようになるまで、相当な時間がかかります。

シンプルな言い換えの例

否定文を言い換える

最後に、 否定文の多用を自覚する ことが、極めて大きな壁でした。

否定文は、その場で行われていることを禁止するだけなので、話す側にとっては容易です。診察室で立ち歩いている子がいれば「歩かないで」と注意すればいいだけなので、私たちの 子育ては、意識しないと否定文だらけになりがち です。診察室で「歩かないで」と言われたら、「普通」は「座る」ものだ、という前提が、「歩かないで」と言う側の脳内には存在します。

ところがこの「歩かないで」という指示、例えば体育の長距離走で、最初から歩いている子に対しても使われるのが厄介です。その場合、「歩かないで」の意味するところは「座れ」ではなく「走れ」ですから、 文脈を理解するのが苦手なお子さんたち にとって、かなり 難易度の高い解釈が要求されている ことになります。

取るべき行動を明示しない否定文は、意味するところが多様なので、取るべき行動を明示される肯定文に比べ、お子さんにとっての難易度が跳ね上がってしまうというわけです。

否定文を解釈することの難しさ

こどもめせんのアプリ

24時間365日、親御さんの子育てにつきっきりで伴走し、親御さんにシンプルな肯定文での声掛けを促しながら、数千枚・数万枚の絵カードでも、一瞬で選び出してくれるようなナニカ があればいい……いや、ないと困る子たちが、あまりにも多すぎる……。

そう思った私は、近年進歩が著しい人工知能(AI)の力を借りて、そのようなAIアプリケーションを作ってみました。

お子さんに話しかけるときにボタンを押すだけで、 AIが音声を解析し、一瞬で字義通りのイラストを出してくれるアプリ です。

誰でも1分かからずに使い方をマスター でき、使っているうちに お子さんへのお声掛けが自然と上手く なります。

こどもめせんのアプリ

現在、多くの方々にご協力いただき、現場での調整を繰り返しながら、急ピッチで一般公開に向け推敲を進めているところです。

→ (2025年10月4日 追記) 多くの方々にご協力いただき、おかげさまで本日 iPhone 版を公開することができました!

ストアへのリンク

Android版は引き続き招待制となっておりますので、もし、ご協力いただける方がいらっしゃいましたら、是非 info@children.co.jp まで、ご連絡いただければ幸いです。

次回以降、「『こどもの視点』に大人が気づくことの大切さ」や「『一方通行の指示・支援』から、『双方向のコミュニケーション・共創』へ」というテーマなど、アプリを通して皆様と目指したい世の中について、もう少し詳しく書かせていただければと思います。(続きます)