前回の記事で私は、「言われたことを一瞬でイラストに変えてくれるアプリ」を作った話をしました。今回の記事では、このアプリが私たちのコミュニケーションにどのような価値をもたらすか、もう少し詳しく書かせていただこうと思います。


小児科医の私が、起業してアプリを作っているわけ(その2)



タマゴだけど、タマゴじゃないの

さすがに、怒りましたよ。タマゴ食べたいって言ったのはお前だろ? だからわざわざ焼いてやったのに、なに考えてんだーって……

不穏な空気をまとって診察室に入ってこられたお父様に伺うと、朝の出来事が見えてきました。彼女は今朝、お父様がせっかく焼いてくださった目玉焼きを前にして盛大に癇癪を起こし、来院前にご自宅で、ひと悶着あったようなのです。


もしかしてだけどさ、食べたかったのって……

私は彼女の前に、何枚かのイラストを並べてみました……

目玉焼きと、卵焼きと、ゆで卵と、スクランブルエッグのイラスト

彼女は迷わず、左から二番目の「卵焼き」を指して

タマゴ!

と叫びます。

えっ!? 全部『タマゴ』だよぅ… …

お父様が困惑したように呟きますが、彼女は何度も卵焼きを指して

タマゴ! タマゴ!!

と叫び続けたのでした……


さて、読者の皆様は既にお気づきかもしれませんが、この2人が衝突してしまった原因は「タマゴ」の脳内イメージにあります。

お父様がイメージする「タマゴ」と、お子さんがイメージする「タマゴ」の違い

ゆで卵も目玉焼きも、スクランブルエッグも「タマゴ」だと思っておられるお父様に、卵焼きだけを「タマゴ」だと思っているお子さんが「タマゴ(=卵焼き)」をリクエストし、目玉焼きが出てきたから「コレジャナイ!」と怒っていたわけです。


私たちはしばしば、特定の音の並びを発するお子さんが、ある典型的な状況下でその音の並びを口にするとき、「その言葉が『分かる』のね」と判断してしまいます。

しかし、卵焼きを前にして「タマゴ」という音の並びを発することができるからといって、そのお子さんが大人と同じ「タマゴ」の概念を獲得できているとは限らないのです。


ほら、青信号だから、渡ろうね

と親御さんが指をさしたとき、お子さんは信号の横にある青い道路標識を見つめているかもしれません。

カラスが飛んでるよ

と空を見上げたとき、お子さんはカラスより遥か上空を飛んでいる飛行機を見つめているかもしれません。

青信号の説明をするときに青信号のイラストを併用したり、カラスの説明をするときにカラスのイラストを併用したりすることは、お子さんが「一般的な言葉の意味」に早く近づくための足掛かりとなります。


海だけど、海じゃなかった

このような「前提のズレによる齟齬」は、お子さんとのコミュニケーションに限った話ではありません。

東大で学ぶために新潟から上京してきた18歳の頃の私は、瀬戸内出身の同級生と、ある有名な短歌の解釈でぶつかりました。

白鳥は哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ (若山牧水)

互いに「この短歌が好き」と始まった話だったのですが、その先いっこうに噛み合いません。相手の解釈が間違っていると侃々諤々やりあった末、彼が

なんで、そう思うんじゃろな?

と私に問いかけて、互いの携帯で海と空の写真を見せ合い、ようやく互いのイメージする「海」と「空」が違っていることに気づきました。

彼は雲一つない空と、キラキラ輝く穏やかな瀬戸内海を想像していて、私は厚い雲に覆われた空と、寒風吹きすさぶ日本海を想像していたのです。

彼がイメージした「海」と、私がイメージした「海」の違い

「空」と「海」。おそらく、どんな子供向け辞書にも載っている基本語彙でしょうし、「空」と「海」の意味を「知らない」と言う大人などいないでしょう。

私たち2人も当然「自分は『空』と『海』の『意味』を『知っている』」と信じ、その前提を疑う必要があるなどとは、思ってもみませんでした。

しかしその実、それぞれが「空」と「海」という言葉で脳内に連想していたものは、結局それまでの人生の、限られた経験に基づく、「ワタシの中の当たり前」でしかなかったのです。


言語による個人の思考の限界を自覚するために、AIの提示するイラストは役立つ

何歳になっても私たちは、「卵焼き」だけを「タマゴ」だと思い込んでいたあの女の子と同じ状況にあり続けます。

「タマゴ」として「卵焼き」だけを出されてきたから「卵焼き」だけを「タマゴ」だと思い、「海」として「日本海」だけを見つめてきたから「日本海」だけを「海」だと思い、「『定型発達』の『健常児』(※この2語の言い回しが好きではないのですが、ここでは説明の簡略化のために使っています)」として過ごしてきたから、「ワタシの見方・感じ方・学び方」だけを「ホモサピエンスの見方・感じ方・学び方」だと思いこんで、やり取りしてしまうのです。

彼と私が「海」について衝突していたとき、

アナタが、おかしい。ワタシが、正しい

と互いに言葉を強めて主張し合うことは、問題解決に繋がりませんでした。

問題解決に繋がったのは、彼の

(アナタは)なんで、そう思うんじゃろな?

という問いかけと、互いに見せ合った携帯の写真――言うなれば「自らの思考の前提となる枠組みを離れ、相手の思考の前提に近づこうとする試み」だったのです。

定型発達の大人と、発達特性をお持ちのお子さんとが衝突したときも、問題解決に繋がるのはきっと

(アナタは)なんで、そう思うんじゃろな?

という問いかけ――自らの思考の前提となる枠組みを離れ、相手の思考の前提に近づこうとする試みなのではないでしょうか。


したがって、お子さんが言葉で雄弁に語り得ぬ際は、お子さんに代わって「お子さんの脳内はこうなっているかもしれない」と想像させてくれるナニカが、私たちには必要です。

私はそのように人と人との対話を促す代弁者として、「こどもめせん」のAIを発展させていきたいと考えています。


お子さんの目線を、想像させてくれるアプリ

少し抽象的な話が続いてしまったので、最後に具体へと戻りましょう。

例えばアプリに「手伝ってよ」と声をかけると、以下のようなヒントが出てきます。

「手伝ってよ」という言葉がけに対応して出る画面

単に「言葉をイラストに変換してくれる」アプリを開発するだけなら、「お手伝い」の場面をひとつ選んで「おてつだい」と字幕をつける方が遥かに容易です。

「お皿を洗っている絵」と「『おてつだい』という平仮名」さえ表示されれば、日本語が当たり前の話し手には「イラストが出てきた! すごい!」と感じていただくことができるでしょう。

ところが、「お皿を洗っている絵」と「意味不明な図形(=平仮名)」を提示されたお子さんが、そこから「お風呂掃除をすればいいのだな」と読み取ることは困難です。

だから「こどもめせん」のAIは、お子さんに代わって「アナタは、何を望んでいるの?」と問いかけてきます。

イラストが「出ない」ことに価値がある例

もう一つ、

お魚と卵、どっちがいい?

と問いかけた場面も取り上げてみましょう。

冒頭で説明した通り、当たり前に言語を習得し、当たり前に言語で思考している私たち大人にとって、「卵焼きだけでなく、ゆで卵も目玉焼きもスクランブルエッグも『タマゴ』と呼ぶ不思議さ」を、あらためて自覚することは困難です。

そこで「こどもめせん」のAIは、お子さんに代わって

あなたが今、脳内にイメージしている『お魚』って何? 『卵』って何?

と問いかけてきます。

「お魚」や「卵」を1枚のイラストに代表させることなく、必要に応じて1つの音声に多数の具象を紐づけ、出てきたイラストが自分のイメージに近づくまでスワイプしていくのが、「こどもめせん」を用いた場合のコミュニケーションスタイルです。 「魚」や「卵」をスワイプして選ぶ画面の例

ちなみに、柔軟な解釈が苦手なお子さんの特性をふまえ、前回「卵」と言ったときに「ゆで卵」のイラストを選んだ端末では、次に「卵」と言ったときにも「ゆで卵」を第一に表示するようプログラムしています。


アナタの目線に、ワタシが近づくために

長くなりましたので、まとめますと、「日本語で思考し、空気を読んで音声を柔軟に解釈し、一度にたくさんのことを記憶できて当たり前の大人」が、「日本語が苦手で、空気を読めず音声を字義どおりに解釈し、一度にたくさんのことを言われると混乱してしまうお子さん」と向き合うとき、必要なのは「日本語を離れ、自らの思考の枠組みを離れ、『アナタの頭の中では、ワタシの言葉がけで今、こういうイメージが呼び起されているのかもしれない……』と、想像を促すような仕組み」です。

そのために、いわば「お子さんの目線のシミュレーター」として開発したAIが、この「こどもめせん」なのです。


生まれ持った得意不得意も、過去の様々な経験も、それぞれの言葉で呼び起こされるひとつひとつのイメージも、全く異なるワタシとアナタ。

そんなワタシとアナタが、目線をよりよく揃えられるよう、AIという第三者の視点で仲立ちすることに、私はとても大きな価値と、可能性があると信じています。


次回はこの話をさらに進め、「私たちが他者の視点へ近づくために必要な『共創するシステム』」について、もう少し詳しく書かせていただければと思います。(続きます)